本日は昨年の11月に90歳で他界しました父の1周忌。
父は晴れ男だけあって、今日の1周忌も礼服を着ていると汗が出るくらい暖かい陽気です。
コロナ禍の感染拡大も一気に下火となってはいますが、弟夫婦と私、妻の4人での1周忌となりました。孫にあたる子供たちや親戚は呼ばず、高齢の母も家で留守番となりました。
昨年の9月ころから、逆流性食道炎なのかと思っていたのですが、食事を摂れなくなる頻度が徐々に増えだし、体重もどんどん減っていきました。近所のかかりつけの先生に相談すると老衰でしょう、一度、往診しましょうと言っていただいた往診の日のお昼前に父は眠るように逝ってしまいました。具合が悪くなり食事量が激減し、わわずか2か月間での出来事でした。
今となっては平均寿命より長く生きられ、好きなお酒も右腕を骨折した昨年の4月までは毎日飲め(毎週、2升の「いいちこ」を飲んでおりました)、長く患うこともなく最後は眠りながら逝ってしまった父は幸せだったのかもしれません。
肉親であっても、毎日仏壇にお線香を上げ手を合わせて偲んだとしても、「去る者は日々に疎し」。父が天寿を全うしたからこそ、子供である私はたった1年しか経っていないのに少し薄れた記憶の中に父との思い出を置いていられるのかもしれません。
当たり前のことですが、生を受けた以上いつかは死ぬことは抗いようもありません。今年の7月に乳がんでステージ3C との宣告を受けた母がいつまで元気でいられるのか、97歳を迎えた妻の母はいつまで老人ホームで寝たきりにならずに過ごせるのか、そして自分や妻も還暦と言う節目を超え、健康寿命をこれからいつまで保ち続けられるのか?
総論で死と言うことは理解できても各論(個人に置き換えて)では何故か他人事になってしまいがちです。しかし一度、身内の死と直面し、法要を介して私事として「死」と向き合い考えることは還暦の向こう側の住人達には必要なんだと思います。
これから、父を偲んで焼酎のお湯割りでも吞みたいと思います。